あんな彼になぁ!

 ふぅー。やっと読み終わった。トルストイアンナ・カレーニナ」。長かったー!上中下巻で各500ページあまり。「カラマーゾフの兄弟」もあれ、長かったけど、ボリュームでは上回ってるんじゃないの。1ヵ月半かかったよ!林真理子なんか長編でも2時間で読めちゃうのになあ。なんでだろうね。でも…すっげー、おもしろかった!
 私にはドストエフスキーよりこっちの方がずっとおもしろく感じる。ドストにしてもカラ兄弟、罪と罰貧しき人びとの3作しか読んでないから偉そうなことは言えないんだけど、なんつーかなあ、こっちのほうが血が通っていて、より感情に寄り添ってくる感じがしたんだ。訳者さんが良いんだろうか。確かに平易で(ときおり「え?いいの?」というぐらい通俗的で)読みやすく、イキイキしていて、それでいて品のある良い文章だったが。中村融…だれ?知らんけど。(岩波文庫版)そこいくとドストのは、あたしゃどれも新潮文庫版で読んでるんだけどどれも人をはねつける硬さ冷たさがあると思うなあ。カラ兄弟なんかわが母校の元学長が訳してるから文句たれるのも気がひけるけど。(ちなみにウワサの光文社新訳版を訳しているのが現学長だ。なんで?カラは外大マターなの?)や、訳云々より、より人の生活や感情をリアルに描き出すのが好きな人なんですかね。トルストイは。よく知らんが。
 さてこの「アンナ・カレーニナ」。かんたんに内容を要約すると「不倫話」だ。おいこら全1500ページにわたる大著を三文字で要約するな!と叱られそうだがそのとおりなんだもん。カレーニン家の奥さん・アンナが、若き貴族将校ウロンスキイと不倫をする話だ。ただそれだけだと上中下3分冊の糞ボリュームにはならないわけで、他に出てくるレーヴィン夫妻、オブロンスキイ夫妻という2組のカップルの話がこれまた長くて、特にレーヴィンの農業経営にかんする長口舌は心底タルい。「カラ兄弟」だってあれ、宗教がらみで延々と続く話がちょーカッタルいじゃん?「あれさえなければなぁー」なんておもっちゃうんだけど「いやあれがあってこその歴史的名著なのだ」という人も多いよな。まーそんなのはほっとけばいいや。私にとっちゃ帝政ロシア時代の地主と農奴のシステムなんて実にどうでもいいのだ。貴族同士の出来レースの選挙話など「えーまだ続くの。うぜー。あたしゃ『文藝春秋』の政治家回顧録読んでるのと違うわ!さっさと終わらせてアンナを出せ!」ってムカムカきたもんな。まあ、これがなければロシア文学じゃない、その辺のフランス写実主義文学や「女性自身」や「女性セブン」と変わらなくなってしまうんだろうが、それにしてもダルい。それでもなんとか読み通せてしまったのは、アンナの恋狂いっぷりが実にあっぱれだったからだ。
 さて、ここから盛大にネタバレをさせていただく。いやな方はここから下はスクロールしないように。
























 穏やかな家庭生活を送っていた美貌の主婦アンナは、ちょっとした鉢合わせを経たのち、華やかな集まりの場でウロンスキイに再会し、たがいに一気に恋に落ちる。それからはもうまわりが何にも見えない。アンナは実の息子のことさえウザくなってほったらかしてしまう。子供がデキるのも早い早い。「えっ!もうデキちゃったの?」こんなに分厚い本なのに二人の展開は妙に速い。ところが…今と違って離婚のめんどい19世紀ロシア貴族社会。かてて加えてアンナの夫がぐだぐだぐだぐだと…で二人の関係は停滞する。ウロンスキイは別にアンナを捨てる気はない。再度の浮気だってするつもりもないし実際してない。ふつーに、ずっと彼女を大事にしていこうと思っている。が、アンナはウロンスキイのちょっとした愛情の冷えにものすごく過敏になる。自分の不安定な立場、明日への希望の曖昧さが、彼女を過剰な愛情確認へと駆り立てるのだ。ウロンスキイに近づく女は誰でも浮気相手に見えてしまうし、彼の口調が少し冷たくなっただけでアンナは激しく嘆き責めたてる。それが更にウロンスキイを興ざめさせてしまう。片方の恋慕のみが暴走したこの恋は、大方の予想どおり悲劇的な結末を迎える。
 完全に正気を失ったアンナに対し、「あんな彼になぁ!振り回されるあんたこそ、アホなんや!」と駄洒落まじりに力いっぱいビンタの一発でも食らわす者が周囲に居さえすれば、彼女はみずからの過剰な感情におしつぶされずにすんだのだ。逆に言えばそういうストッパーが居ないからこそ、小説は小説たり得るのだが。いや、アンナは自分が正気ではないことをうすうす自覚している。そういう記述がある。でも、気づいたところでもう止められない。はじめアンナはウロンスキイが好きになった。ところが混乱におちた彼女は、もはやウロンスキイが好きなのではなく、「ウロンスキイに愛されること」が好きになっている。ほしがっている。なくては生きていけない。
 アンナは愚かである。いや、無責任なウロンスキイこそ罪深い。頑迷なカレーニンこそ全ての混乱の元凶だ。いろんな意見があるらしいけど、私は誰にも罪はないと思う。しいていえばそれが恋というものなのだ。これを読むと19世紀のロシア貴婦人も、現代の日本に生きる女もあまりに同じであることに驚く。恋は、病気だよねー。過剰に落ちると、社会常識も、穏やかで健康的な生活も、こわすよねー。でも寂しさや不安が、病へとパックリ口をあけて「おいでおいでー」って誘うんだよね。おお、こわ。そんなものには落ちないに限るねー。そう思うとさぁー。よくある「恋愛脳になる!」とか「めざせ!恋愛体質」とか、女性誌の無責任な特集タイトル。あんまり煽るのはどうかと思うねー。過剰な恋愛依存は確実に生産性や社会性を削ぐって。
 でも小説として読んでるぶんにはおもしろいからいいや。アンナにしろ「ボヴァリー夫人」にしろ、「赤と黒」のジュリヤン・ソレルに惚れちゃう女達にしろ、「あははーバカオンナだねー」とニヤニヤしながら読むのは実におもしろい。その辺を堪能するためには、正直レーヴィンに関するくだりはまったく関係ないので、全部すっ飛ばしてでも読むのをお勧めするよ「アンナ・カレーニナ」。ちなみに上記のような読み方は一般的には大いなる「誤読」であり、本来は変化する時代、疲弊する制度と未知の社会的実験のいりまじる19世紀後半のロシア貴族社会において、自我の確立と崩壊を三組の夫婦をとおして重層的に描く作品で、その緻密さと重厚さをじっくり味わうべきものらしい。だから「トルストイ+アンナ・カレーニナ」で検索で飛んできたあなた。絶対に、このエントリを読書感想文やレポートのネタ元にしないように(笑