15年前のこと

 テレビをつけたら「神戸新聞の7日間」というドラマをやっていた。見た。2分でテレビ消した。だってのっけから嘘なんだもん。いくら山側経由といっても、あの日の午前にスイスイと車が走れる道路なんてなかったのに。しかも神戸を見下ろせる高台にいきなり車を停めて、のん気に見物するなんて。あの日の京阪神一帯のどこにそんなスペースがあったの。嘘を垂れ流さないでよ。
 15年前の1月17日、私は某レコードメーカーの大阪営業所勤務で、大阪市北部の上新庄という街に住んでいた。ほとんど被害がなかったとされる地域だ。実際、私にはなにもなかった。あの時のことを出来るだけ思い出して書いてみよう。
 明け方6時前、揺れたときにまず思ったのは「あ…珍しい」。東京住まいの時にはしょっちゅう揺れて慣れっこだったものの、関西ではまずなかったから。そして「あれ…なんかちょっとヘン」。狭いワンルームに隙間なく詰め込んだ電化製品や家具の上で、冷蔵庫に置いたハカリが垂直にポーンポーンと跳ねている。なに?この揺れ。へんだよ。私は運がよかったのだとあとで知った。たまたま方向がよくて、ギッチリ詰めた家財が互いに揺れを相殺したらしい。これが90度異なる方向だったらことごとく寝ている私のほうへ倒れていた。事実、同じ街に会社の先輩が何人も住んでいたが皆、CD棚が倒れて壊れて割れて悲劇に陥ったという。泣きながら割れたCDを元に戻し、整理し終わったところで7時半の余震でまた崩れた、と。
 何もなかった私はこともあろうにまた寝てしまった。すると7:40AM、定時のお目覚めの時刻に、FM802がタイマーかかって聞こえてきた。イージーリスニング音楽を延々と流している。ふだん陽気なロックやR&Bばかり流している「FUNKY 802」が。ノン・ナレーションで「恋はみずいろ」などを。「ただごとじゃない」と気づいた。
 テレビをつけたら情報番組で「ほとんどの鉄道線が止まっている」とだけ繰り返している。ただ京阪のドン行だけは動いていると知った。ふだんの最寄り駅は阪急京都線上新庄駅だけれど、自転車で淀川を越えれば京阪の駅にも行ける。私はいつものようにお弁当を詰めて、自転車に乗って出勤した。
 京阪電車は北浜止まりで、会社のある堺筋本町までは一駅分歩かなければならない。改札を抜け、地上に出て、堺筋を南へ歩き出した。人影のほとんどない通りいちめんに、割れたガラスが散乱している。クリスタル・ナハト!?いや、朝に起こったことだからクリスタル・モルゲンかな。そんなことを考えながらジャリジャリとガラスを踏んで会社に向かった。
 会社の入ったビルは無傷だった。午前10時ちょい前。あちゃー定時から15分遅刻しちゃったよ、お目玉かな。と思って会社に着くと明かりも灯っていなかった。ただ電話がジャンジャカ鳴っていた。そのときNTTの回線は完全にパンクしていたのだけれど、地方営業所間は専用線でつながっていた。電話の主は心配した他の地方営業所の所長からだった。私が会社の一番乗りだった。かたっぱしから電話を取った。
 それからパラパラと社員が出勤しはじめて、安否確認や得意先の状況確認のため、みな電話をかけまくったのだけれど。はじめ、被害がいちばん甚大なのは堺市周辺、大阪南部だとみんな思ったんだよ。それから京都もひどいと。いちばん電話がつながらなかったから。みんなそれでパニクっちゃって、気づかなかったんだよね。「そういえば芦屋に家がある○○君、どうしてるんだ。」「そういえば△△君、あいつ西宮だっけか、連絡ないなあ。」ぜんぜん、誰も深刻に考えていなかった。芦屋の○○さんはおばあさまが亡くなられたという第一報が入ったけれど、それっきりで。
 午前中ひとしきりワラワラと電話をかけまくって、昼休み、お弁当を広げながら、応接室に一台だけあったテレビを見た。それで横倒しになった高速道路を見て、初めて事の重大さに気づいたのだ。
 救援物資送らなくちゃ!って、食品や衣類を買いこんで段ボールに詰めたりな。会社のすぐ隣が「業務用デパート」ってやつで(東京だと「シモジマ」みたいなやつね)、保存のききそうな食品片っぱしから集めてな。チーズかまぼことか入れたかな。まあ、分配・配布するボランティアのことは何にも考えていなかったな。数日して大阪営業所所員には全員一律で見舞金が出たけどもちろん全額義援金にしたな。寄付先は朝日新聞だったっけ。
 △△さんは1週間たってやっと会社に出てきた。仲のいい人を中心にみんな、カセットコンロ用ガスボンベやミネラルウォーターを集めてあげて、△△さんは巨大なリュックいっぱいにかついでまた帰って行った。そうそう、ミネラルウォーターは震災のその日から大阪市内で完全に姿を消してしまって。南アルプスの天然水も、ヴォルヴィックも、六甲のおいしい水も、なにもかも。ただ輸入品のクリスタルガイザーだけが出回って、駅のキオスクにまで置かれて、当時は誰も知らないブランドで「クリスタル・ガイザー?なにそれ?うさんくさ」と思いつつ、それしか本当になくて。
 そうだ、震災から1,2日は、被害のなかった上新庄界隈でも、コンビニやスーパーからパン、牛乳、おにぎりなどが完全に消えてしまったんだ。ただでさえ配送網が寸断されたうえ、なけなしの供給品はすべて阪神間へ向かって、だからコンビニの棚はからっぽ。慄然としてね。がらんとした棚の前で、SMAPの当時の新曲「たぶんオーライ」がBGMで流れていてね。「新ネタバーガーかじって」という歌詞があってさ、「かじるバーガーもねえよ」と心中つぶやいた。いまも「たぶんオーライ」を聴くと震災を思い出す。
 慄然といえば…うん。もちろん交通網は寸断どころか全滅になって、現場に行くにはバイクに乗るか、大阪南港から船でポートアイランドに行くか、丹波舞鶴経由で北から入るかしかなくなって。バイクに乗れる会社の先輩は、孤立した同僚やOB社員のところに駆けつけてヒーローになってたな。長い長い列にならんで南港から船で得意先にかけつけ、それを1ヶ月以上続けたおじさん社員もいた。あと鉄道も武庫川まではわりとすぐに動き始めて、だから歩いて武庫川まで逃げてきた人々が電車に乗って、阪急梅田駅にたどり着いて。広いコンコースを2階から見下ろすと、着の身着のままで大きな荷物抱えて座り込む人、人、人の群れで、言葉を失ったな。
 だけど重篤な被災地には、どんなに助けてあげたくとも私は行くことは出来なかった。何も出来なかった。ふつーに会社の仕事があるし。営業だったから、担当地域の被災状況を聞きとって、壊れた商品、だめになった商品の特別返品の概算出して本社に報告して。それは人が死んだりビルが崩れたり、そういった地域ばかりじゃなかったもの。
 それに行きたくとも行く手段がなかった。ほんとうに、徒歩かバイクしかなかったもの。自転車は路上のガラスの破片でパンクするから乗れないし、だいたい上新庄から阪神地区まで自転車は到底ムリな距離。何とか助けたい、力になりたい、でも駄目なものは駄目。神戸のFM放送局「Kiss-FM」で多言語震災情報放送ボランティアを募集してて、問い合わせまではしたんだよ。でも住んでる場所を聞かれて、それっきり。問い合わせを受けるほうも困っていたと思うよ。
 それからしばらくして交通網も何とか復旧し始めて、でも私は神戸に行くことはなかった。あのとき、もっとも忌むべき存在として「うわすご族」というのがいてさ。あまりにひどい被害をうけた神戸の現場を野次馬根性で見にきて「うわ、すごっ」と声をあげて、それだけで帰って行くという。用のない人間は神戸に来るな!というのが、あのときの「常識」「良識」でしてな。ボランティアの糸口も、本気で身を投じる覚悟もない自分には、神戸は行ってはいけない場所だったわけだ。大阪で、自分の仕事、会社の仕事をするだけしかなかった。それが、歯がゆく、良心の呵責も感じ、しかし自分はやはり無力で。
 本当の悲しみはそのあとからやってきた。震災で京阪神の経済はめちゃくちゃになって、阪神間のチェーン店を中心に、レコード店が、私たちの得意先がバタバタと倒産していってさ。上司といっしょに、もうダメですよね、債権保全どうします?みたいな話を行き道しながら、でもいざ訪社して、担当の人と顔をあわせると、なにくわぬ顔で月例の商談はじめてさ。もう秋風もつめたいな、と感じる帰り道、まだ傍らの公園に青いビニールシートの仮住まいがあってさ。
 ただ、そういう哀しみは、地震のずっと後にきたのであって、震災直後はみんな、「今をどうしよう?」「この状況をどうしよう?」と、目の前の対処をするのに必死で、そういえば泣いていたり、「つらい」「悲しい」と嘆いている人はひとりも見なかった記憶がある。はっと気づいたときに、あっ、家族がいなくなっちゃった。おうちがなくなっちゃった。街がなくなっちゃった。会社がつぶれちゃった。と、悲しみが襲ってきたのだと思う。
 こんな話はつまらないかい?おうちも壊れなかった、家族も知り合いもそんなに死ななかった、何のダメージもなかった人の阪神大震災体験談は。そうだろう。つまらないだろう。
 だけどそれを「うん、つまらない。」と思った貴様!てめえも「うわすご族」のひとりだ!
 あのときの神戸新聞の人たちも、別にヒーローになろう、美談の主になろうと思ってやっていたわけじゃないよ。ただ目の前のことを、ただこなしただけだと思う。ことさらドラマにするなんて、それこそ「うわすご族」だとおもうんだけど。しかも、ありもしなかった「見よ、人がゴミのようだ」みたいなシーンをさしはさむなんてさ。役者がが泣いたって嘆いたって嘘は嘘だよ。あの時、どんなに助けたくても助けにいけずに、ずっと心に引っかかっていた私に、「嘘をごめんなさい」ってあやまってくれないかなあ。