1989年の上海

 上海万博だねえ。日本のテレビ局はどこもクズだな。開幕セレモニーの花火も生中継しない。開門しても客がワラワラ殺到するゲートから「歩いて15分ほどのところで中継をしておりますっ」とシレッと言う。それ意味ないから。万博会場の実情は、どこの局を見ても全然わかんない。
 けどチラチラ見える街の様子は、私の記憶の中の上海とはまあ、別の街である。私がはじめて降り立った外国の街は上海で、いまから21年前、1989年のことであった。あのころのことを思い出すままに書いてみよう。
 今回の万博会場は黄埔江の両岸なんだってな。外灘から川を隔てた向こう岸、21年前はあっちに何もなかったんだ。いや、あっちに渡ることさえ出来なかった。地下トンネルが出来たのはずっとあと。当時は橋すらなくて、ずうっと上流のほうへたどっていってやっと1本あったかな、ぐらい。渡る方法といえば船ぐらいだったような。その船着場もずいぶん上流まで行かないとなかったはず。だから、すぐそばに見える向こう岸、あっちに渡ったというツーリスト仲間がいたとしたらそれは都市伝説レベルだった。地図を見ても「××新村」と書かれているだけでのっぺりと、ランドマークになるものは何もない。「〇〇さんが行ったらしいよ」って、真偽不明の噂になるぐらい。
 学生旅行者はもっぱら日本-上海間のフェリー「鑑真号」に乗ってやってきた。飛行機は格安券がなかった。船着場が街はずれ、黄埔江の下流のほうにあって、そこから雑魚寝宿・浦江飯店まで、乗り合いの白タクもなくはなかったけどおおかたは徒歩。20分ぐらいの距離だった。右手が延々と同じレンガ壁だったことにまず驚いた。工場だったと思う。歩いても、歩いても壁が途切れない。他になにもない。ここは外国なんだ、何もかも日本とスケールの違う場所なんだ、とまず思った。
 浦江飯店の周囲にはチェンマネ屋がたむろしていた。当時の通貨は人民幣と、外国人用の「兌換券」にわかれていた。われわれが両替で受け取るのは兌換券。それを100:170ぐらいのレートで人民幣に替えてくれる、「チェンジ・マネー?」と声をかけてきて。チェンマネ屋は絶対に漢人を選べ。それが旅行者の鉄則。ウイグル人は騙す。世にも鮮やかな手つきで100元を80元ほどに替えてよこす。それが「ウイグルマジック」だった。
 兌換券で友誼商店にある外国製の家電製品が買える、それが地元の人の垂涎の的なのだ、と聞いた。薄暗い中にフィリップスの冷蔵庫かなんかがひっそり置かれてて、それがほしいのかー、と。いや、上海の友諠商店はまだ明るいほうだっけ。ろくな土産物の買える、唯一の場所。
 浦江飯店から外白渡橋を渡るとバンド=外灘につく。ここで朝6時半からやってる太極拳の群舞、これを見るぐらいが唯一の観光。早起きして行ったっけ。近くにはトロリーバスの大きな停留所があって、もう通勤に行く人々が動き出していた。誰もドアから乗らなくて、ガラスのない窓からぎゅうぎゅう飛び込んで乗っていた。そんなの戦後まもなくを撮った記録映画ぐらいでしか見たことがなかったからリアルでやってることに驚いた。こぼれそうな人を乗せてトロリーは、パンタグラフからバシバシ火花を散らして走り出した。ふと足元を見ればスイカの皮や紙くずやひまわりの種のかすやツバでものすごく汚かった。
 あとは通りの向かいの和平飯店でジャズバンドを見るとか、南京路をずっとずっと歩いて人民公園のむこうあたりに円形劇場のある雑技を見るとか、娯楽はほんとうに、それだけ。
 することがないから延々、南京路や淮海路を8kmぐらい歩いたり。両方とも当時から目抜き通りだったけどショッピングできるような店もないの。南京路のデパート・第一百貨商店と、食料品専門の第一食品商店。あと新華書店ぐらい。淮海路には第十食品商店があったかな。
 どの店も商品はガラスケースの中にチンマリ入っているだけでさ。ボールペン1本、ケシゴム1個に至るまでそう。店員に「これが欲しい」と言うと、まず伝票を切ってくれて。それを収銀処にもってってお金を払って、レシート手に売場に戻るとやっと商品くれるの。商品を投げてよこすのはデフォルト。本だってそうだよ。おつりを投げてよこすのも、これまたデフォルト。
 食料品は少しだけ違って、量り売りが基本。ガラスケースの中にあるお菓子やパンや果物を、スコップですくって天秤やハカリで量って伝票切る。店員はみんな白衣姿だった。当時、食料品の購入には「糧票」が必要、と言われていたんだけど上海はとりあえずなくてもなんでも買えたな。
 もちろんコンビニなんてない。ファストフードも一軒もなかった。たしか当時、ケンタッキーが北京に一店あるだけだったような。
 だから食べるものの選択肢も狭くてさ。外国人用レストランもあったけど、毎日では学生旅行者にゃオカネが足らない。ただ外白渡橋の周辺の裏通りに、小籠包とあとわずかばかりのメニューを出す小食堂があってな。そこへ、なぜかわれわれ外国人にやたらフレンドリーなオカマちゃんが寄ってきて、連れてってくれるの。
 現地人で旅行者に仲良くしてくれたのはこのオカマちゃんたちだけだった。彼らは社会主義国・中国には「いないこと」になってて、でも実際は愛滋病も当時ずいぶん蔓延してたって聞いた。いないことになってる人たちだからこそ、私たちみたいにツアーに参加しない、「いないことになってる旅行者」と仲良くしてくれたのかな。旅行者はCITS=中国国際旅行社の管理下のツアーに参加するもの、となってたから。
 そんな窮屈で何もない上海などさっさと出て他の観光地に行けよ、って話だが、行けなかったのよどこにも。移動の鉄道切符が手に入らない。CITSに行っても(和平飯店の1階にあったな)埒が明かないし、駅の外国人用切符売場に行ってもろくに調べもしないで「没有!」。まして人民用売場など人が暴動みたいにひしめき合ってて、どんなにカオスになってても売場の窓口は時間になったらピシャリと閉まる。マジで、ピシャリと音を立てて閉めてたもんな。
 道路網も未発達で長距離バスもなかったし、上海からどこにも動けずに5日、10日と無為に浦江飯店のドミトリーで過ごす旅行者も多かった。私も結局、最初に上海に行った時にはどうにもならなくて、最後には飛行機に乗っちゃったもんな。人生最初の飛行機が中国民航の国内線。ガックンガックン、階段を下りるみたいに降下をする国内線。
 人民はみんな不機嫌で、ふたことめには「没有!」しか言わないし、ツバ吐くし上半身裸だし。それが…日本ではバブルまっさかりだった、1989年の話だよ。誰もが豊かさとオシャレさ、楽しさを謳歌していたバブル期の。
 なんか一種のサバイバル合宿だったねえ。上海行き。鑑真号が2泊3日だから、そこから旅行者みんな仲良くなって、クラス合宿みたいになっちゃうの。みんな同じ浦江のドミに泊まるし。あの浦江飯店はまだあるのかな?いや、あっても、街がすでに別物になってたらどうしようもないか。